2016年04月07日(木) 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39
時に、神の御心と自分の意志がかみ合わない時がある。しばしば経 験する。神の御心が何となくわかるのだが、自分はその方向へ進み たくない。又、自分はこの事がどうしてもしたいのだが、道が開か れず、どうも神の御心ではないようだ。しかしどうしても成し遂げ たい。しばしばこのような状況に陥る。葛藤と苦しみが生じる。 このような時には、どうすればよいのか。まず、よく祈ることが必 要で、大切だ。主は十字架にかかる前に、ゲッセマネの祈りで、気 持ちを率直に祈られた。「できますならば、この杯をわたしから過 ぎ去らせてください」、十字架を回避させて欲しいと。ずっと弟子 たちにも、これから十字架にかかり・・と言い続けて来られた十字 架だ。 どんな御心にも、黙って、勇敢に従って行くのが霊的で、立派な信 仰者なのではないのか。私たちにはそんな思いが無いだろうか。し かし、主は弟子たちに、一緒にいて欲しいと弱さをあるがまま表さ れ、又、主の計り知れない深いみ思いがあり、繕わずに、隠さずに、 ありのまま十字架を回避させて欲しいと、御父に祈られている。こ れが真の祈りだと見せられる。 そして、祈りの中で、御父の御心に、ご自身を明け渡して行かれた。 「あなたのみこころのように」と。私たちの肉が求めるのは、どこ までも自分の意志の実現だ。「自分の心が成りますように」だ。強 い自我があり、そこに「自分を捨てる」「自分に死ぬ」苦しい戦い がある。だが主はその苦しみも、戦いも理解して下さっている。主 が共におられ、すでに勝利して下さっている。 ------------ あくまで自分の正しさを訴えているのか、弱さを認められず苦しい のか混沌としているままを飾ることなく御父に訴えよう。祈りの中 で示されてくる。砕けた心で御心を祈れるようになりたい。