2016年06月07日(火)

「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである」創世記26:12




「先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉があった」とあり、そのた
めイサクは、エジプトに下ろうとした。しかし、主からこの地にと
どまれとの示しがあった。そうするなら祝福すると。そこでイサク
は、飢饉の中で種を蒔いたのだ。作物が育つどころか、どんどん枯
れて行く状況だ。

見えるところでは、作物が育つような環境では全く無かった。雨も
降らない。何のために蒔くのか。蒔いても種が無駄ではないか。
飢饉のまっただ中で何が望めよう。もっと失うばかりだ。しかし種
を蒔いた。イサクには信仰があったからだ。そうでなければ、種を
蒔くことなど出来ない。見た目には、種も、労力も無駄だ。

しかし、何と百倍の収穫を得た。神の一方的な祝福だ。私達も信仰
によって進む時、大きな祝福を見る。もしイサクが蒔かなかったら、
どうだろう。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日にな
って、あなたはそれを見いだそう」。神は祝福して下さる。

しかし、私達の側では、なすべき事をしなければならない。種を蒔
かなければならない。豊かに蒔く者が豊かに刈り取る。あなたにも、
今、なすべき事が示されているだろうか。蒔かない限り、刈り取り
は無い。信仰によって蒔いて、大きな祝福にあずかろう。
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成果は主の祝福による。志が与えられても、肉は常に状況や自分を
見せて愚かなことだと言ってくるだろう。主の導きがわかったら信
仰をもって従おう。従えるように祈ろう。