2019年04月07日(日) 「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち を少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27
「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち を少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27
心配事があるだろうか。問題は、次々と起きて、心配事を抱える。 親子、夫婦の悩み、対人関係の苦しみ、仕事、経済的苦境、様々な 悩みで思い煩う。しかし主は「思い煩うな」と言われる。「何も、 いっさい」思い煩うなと。なぜ心配無用なのか。思い煩いが何かの 益になるのなら良いが、全く何の益も無い。思い煩ったところで何 一つ変わらないし、何を成し遂げる事もない。 「誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことがで きるか」の通りだ。心が真っ暗に落ち込む事で、何かを変える事が できるだろうか。思い煩いは有害無益だ。又、思い煩いは、実際よ り物事を大きくしてしまう。冷静に対処するなら、乗り越えて行け る事態が、巨大に見えて、不安と恐れでパニックに陥ってしまう。 カナン視察の後、ヨシュアとカレブは大丈夫だ、占領できる、前進 しようと言ったが、民は恐れて怯えて泣き伏した。 その心配事は、絶えず脳裏に浮かび、それを繰り返し〃受け入れ続 けていると、不安と恐れの要塞を築き、それを強固にし、モンス ターにしてしまう。自分がそうしている。モンスターにはとても打 ち勝てず、敗北しかない。不信仰に陥る。 しかしそれは現実とは異なる。空想上のモンスターであり、自らが 描く最悪のシナリオは成ったためしがない。「祈りと願い事によっ て」その不安、この恐れを主に知って頂こう。思い煩うなと言われ るが、どうにもならないとありのままを、まず主に告げよう。平安 と交換して下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 思い煩いは小さな事ではない。心はずっと重苦しく、身体まで壊し てしまう。愛なる主が委ねよ、委ねよと言って下さっているのに、 自我は固く握って放さない。握っていないと、放すとだめになると 思ってしまう。祈って行こう。助けて委ねさせて下さる。