2019年12月08日(日) 「・・なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ 6:45
「・・なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ 6:45
こんな御言葉がある。「死と生は舌に支配され、どちらかを愛して、 その実を食べる」私たちは単純に善を愛して、悪を憎んでいると思 っている。悪を憎んでいるのだが、まだ罪の性質があるため、罪に はまってしまう事で悩んでいると。しかし御言葉によると、死を愛 する心があると言っている。罪を本当は憎んでいるのではなく、愛 していると。 例えば、自分を傷けた相手、又、自分に敵対し、中傷する相手を憎 んでしまう。憎むのは、自分が苦しいし辛い。しかしながら憎しみ は募る。だが心の底の底を探られると、憎みたくないのではなく、 強烈に憎んでいたい。赦せないのでなく、赦したくない自分がいる。 どうしようもない自分に、自我に、行き着く。古い罪の性質がある。 だがそんな時こそ、主の十字架、主の流された血潮が、頭ではなく、 現実味をもって迫って来る。まさにこのために、この自分のために、 主は裂かれて、血を流されて苦しまれたのだと。自分の罪が見えて 十字架の赦しがわかる。そして舌は死と生を支配すると。言葉は種 であり、蒔いた結果「その実を食べる」。 恵みの言葉は恵みの実を、悪い言葉は悪い実を結ぶ。死か命の実を 結んでしまう。否定的、批判的、懐疑的な言葉の種を蒔くか、肯定 的、建設的、信仰的な言葉の種を蒔くか、日常で語る言葉は大変重 要だ。日々どんな言葉を口から出しているだろう。内側が御霊に支 配される事を求め、発する言葉が御霊に導かれるよう祈っていよう。 ・・・・・・・・・・ 口は心に満ちているものを話すので、不満、愚痴、怒りがあれば必 ず肉の言葉が出てしまう。主とよく交わり、心の内を主に聞いて頂 いて、心を御霊に導いて頂こう。「主よ。私の口に見張りを置き、 私のくちびるの戸を守ってください」と祈っていよう。