2020年04月07日(火)

「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません」マルコ7:15



この世の考え、生まれつきの価値観では、外側から入るものが、人
を汚すと思う。生い立ちが不幸だった、酷い環境だった、社会が悪
い・・だから、子供は非行に走り、大人は犯罪を犯すと。環境さえ
良くなれば、社会さえ良くなれば、人間は良くなる。悪い影響を取
り除けば良いのだと。しかし、たとえ良い親で、親が愛情を持って
育てても、人は罪人であり、ある人は自分の欲望のために生きる。

聖書は正反対のことを言う。環境が人を汚すのでない、環境は人を
汚すことができないと。人は罪を犯したから、罪人なのではなく、
罪人だから罪を犯すのだと。環境が良ければ、善人になるのではな
い。「義人はいない。ひとりもいない」、環境は関係無く、人の心
から出るものが人を汚す。

「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不
品行、盗み、殺人・・これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す
」。様々な問題がぶつかり合い、争いが起きる。それらは、関与す
る人々の心から出て来る問題だ。すべてが内側から出て来て問題を
起こす。心に原因があり、内側から出る「罪」が人を汚す。

主は、そのところに十字架で解決を下さった。主の流された血潮に
よって、私たちの心も良心もきよめられる。主は罪を赦し、心をき
よめて下さる。そして自我まみれの古い人は、キリストと共に十字
架につけられたと。信仰によって受け取って行ける。主の血潮によ
ってのみ、私たちの内側はきよめられる。
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清くなりたいのと清いのは違う。誰かのせいにできない内側の問題
を主は十字架で取り扱ってくださった。頑張って清くなろうとする
傲慢さに気づいていたい。心が主から遠く離れてしまう。