2020年12月04日(金)

「・・ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」使徒16:7





私たちも進路の事で経験する。自分の進みたい方向があるのだが、
閉ざされてしまう。強い願いがあるにかかわらず、目の前で戸が閉
じられる。入学や入社試験、事業や様々なプランにおいても経験す
る。 又、大事な仕事を前に病に倒れたりする。「なぜ?どうして
?」悲しく辛い経験だ。

パウロもアジアでの宣教活動を御霊に止められた。では、ビテニヤ
へ行こうとしたが、それも阻止された。宣教のためなのに、なぜ?
時に御霊の導きは、私たちに理解ができない。だが理解できなくて
も、そこに主を認め、主のご計画を信じて行くこと、それが信仰に
よって生きるということだ。あちこち閉じられたパウロは結果的に
マケドニヤに渡るよう導かれた。

そこには、思いを遙かに超えたヨーロッパ宣教という大きな御心が
あった。進路を止められた事は、導きを失った事ではない。迷子に
なったように不安を感じてしまうが、御心が別にあるという事だ。
ある人は医師として働こうとした時に、病が発覚。数年の入院生活
にひどく落胆した。

が、完治して実践の場に出た時、患者の気持ちがわかるという、幸
いな益を受けて、病を感謝した。自分が思う最善の進路が閉ざされ
たなら、主が思われる最善の道に導かれる。道が閉ざされたなら、
導きを失ったのではなく。御心が別にある。別の道を備えられてい
る。祈って、主を待とう。
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主は門を閉ざして、別の道へと進ませてくださる。とても明快な導
きだ。願いが叶わない悲しみはあっても、揺るぎない主への信頼を
もって次の導きを待ち望もう。