2021年05月08日(土)

「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとす れば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」へブル12:8


信仰人生における、神の祝福をしばしば勘違いする。受験合格は祝
福で、不合格は祝福されていないと思う。商売は繁盛で、家族は皆、
健康で、喜ばしい事、楽しい事が溢れている事が祝福だと。そして
最後は天国で、めでたし、めでたしで終わると。祝福とは、幸せで
楽しい事、問題が無く平穏無事、順風満帆の事だと、無意識に思っ
ていないだろうか。

だから、ある日突如として、倒産したり、リストラになったり、家
族が病気、受験失敗となれば、パニックになる。こんなはずではな
い。「何で?どうして?」神は祝福してくれるはずでは無いのか。
未信者の親族からは、そんな事では信心している意味がない、と冷
ややかに見られる。自分自身も不満が募り、爆発してくる。

しかし聖書は、そんな事は言っていない。信仰人生、順風満帆で問
題が何もないなどとは、一言も言っていない。約束していない。む
しろ多くの箇所に、試練、訓練、鍛錬、懲らしめ、刈り込みと沢山
出て来る。試練でいっぱいだ。それは祝福なのだ。

新生し、その新しい性質が主に似るようにと、成長のために与えら
れている訓練だ。「愛」も勘違いしていないか。暖かい嬉しい喜ば
しい感情的なもの、ハピーな、楽しい事が愛と。しかし、聖書は
「懲らしめは愛」だと言っている。

「主はその愛する者を懲らしめ」、必要な事は、根底の価値観を御
言葉に修正する事だろうか。試練、訓練は、神の愛だ。愛されてい
る証拠だ。愛されていないなら放っておかれる。私生児であって、
本当の子ではないと。

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病気やけが、不合格、経済的苦境や別離、一見、負の出来事に会う
と、辛くて、落ち込み、心沈んでしまう。すると心寂しくなり、神
に祝福されていないと感じてしまう。その時に、自分の感覚を取る