2022年04月07日(木) 「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みこと ばに聞き入っていた」ルカ10:39
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みこと ばに聞き入っていた」ルカ10:39
ある人の証しだ。多忙な日々だった。仕事は忙しく、心身共に疲れ 果てて消耗してしまう。夜勤もあり、身体の疲労も激しい。生活自 体が不規則だった。夜勤が続くと、朝帰宅し、夕方まで眠る。すぐ に出勤時刻になる。聖書を読み、祈る事は一応欠かさず行ない、教 会の奉仕もしていた。 そんな中、事故で入院となった。けがは治療を受け、大した事なく 感謝であった。ゆっくりした時間の中で、初めて我に返れた。十分 に主と交わる中で、今までずっと流されていた事に気づかされた。 デボーションも毎日するが、形だけだった。奉仕も習慣的になって いた。 外側は一応整うので、全く気づかなかった。自分はマルタだった。 仕事上ではイライラピリピリしていた。思い煩いや不満、妬み、腹 立ち、様々な思いも、主のもとへ持って行き、主との交わりの中で 解決して行く事がなかった。忙しさの中で、立ち止まる時間も、考 える時間もなく、流されて突き進んでいた。 事故も主からであり、立ち止まらせられた事に、心から感謝した。 祈りや聖書を読む事が全くしないなら、わかりやすく、自分でも自 覚できるが、一応形があるだけに、気づけなかった。生活に、潤い や喜びや愛、御霊の実が無かった事も納得できた。 じっくりと主と交わり、御言葉を聞く日々に、色々な事が見えて、 自 らの姿も見せられ、しきり直しでき、軌道修正させられた。容易 に、 自分は外側の形だけの、信仰生活に陥ってしまう事をも気づかされ た。 大きな学びだった。 ------------ いろいろな出来事が日々、目の前にやって来るが問題の中にあって も しみじみと喜びがあるのは主との交わりによってではないだろう か。 喜びに満ちた信仰生活を送ろう。