2023年10月08日(日)

「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビ デの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた」マルコ10:48


バルテマイはこじきで、人々から物乞いをして生活していた。人々
から金銭や物を恵んでもらい、生きて行くことができた。だから道
行く人々に物を求めていた。しかし、主に求めたものは、金銭や物
ではなかった。「目が見えるようになること」だった。こんな求めは、
この方にはできるとの、信仰がなければ、はなから求めることなど
しない。

彼には信仰があった。その信仰は「私をあわれんでください」との
叫びを生んだ。それを大勢がたしなめても、止むどころか、ますま
す叫び立てた。もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、
そこまで叫ぶ事もしない。彼は必死だった。この時で、このチャン
スしかないと、全身で叫び立てた。

ザアカイも同様だった。今を逃してチャンスは二度と無いと、木に
まで登った。バルテマイは、もしここであわれみをもらわなければ、
生涯盲人のまま、又、ザアカイは一生虚しい何の喜びもない暗い
日々のままだ。絶対にこのままでは帰れなかった。主はその心底
からの求めに、応じて下さった。私たちはどうだろう。

バルテマイの叫びがあるだろうか。与えられても与えられなくても、
どっちでもよい程度のものだろうか。又、諦めてしまっているだろ
うか。彼は、いっさい何も出来なかった。出来る事は何もなく、しか
し「あわれんで下さい」と叫ぶことができた。この主への求めを、主
は待っておられる。

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自分が何もできず、何ものでもない事を知ることは、大きな恵みだ。
何のすべもなく、何もどうする事もできない。そんな時に、ただ一つ
だけできる事がある。主に求めること、主に叫ぶこと、必ず受け止め
あわれんで下さる。主のあわれみは、驚くばかりだ。