2024年07月08日(月)

「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほし いのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになる ことです。』」マルコ10:51



バルテマイは目が不自由だった。当時は福祉も無く、物乞いをして
生活をしていた。人々から金銭や物を、恵んでもらって、生きて行
くことができた。だから、常に人々に物を求めていた。しかし、主
に出会った時に、求めたものは、金銭や物ではなかった。「わたし
に何をしてほしいのか」と問われた主に、一生不自由しない富を求
める事が出来たが、そうでなく「目が見えるようになること」だっ
た。

この方には、それができると信じなければ、はなから求める事など
しない。彼には信仰があった。その信仰は「私をあわれんで下さ
い」との叫びを生んだ。大勢がたしなめるが、ますます叫び立て
た。又、もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、どこま
でも叫び続ける事などしない。彼は必死だった。この時、このチャ
ンスを逃す事ができない。もう二度とチャンスは無いと、全身で叫
んだ。

ザアカイも同様だった。今を逃してチャンスは二度と来ないと、木
にまで登った。もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯目が
見えないまま、又、ザアカイは一生虚しい喜びのない暗い日々があ
るだけと、絶対にこのままでは帰れなかった。主はその叫びに答え
て下さった。私たちはどうだろう。バルテマイの求めがあるだろう
か。

与えられても、与えられなくても、どっちでもよい程度のものだろ
うか。又、諦めてしまっているだろうか。彼はいっさい何も「でき
なかった」。しかし、あわれんで下さいと叫ぶ事が、「できた」。
止められても、叫びはますます大きくなった。この求めを、主は待
っておられる。主のもとに行こう。
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いつの間にか、現状に慣れて諦めたり、つぶやいたり、また自分の
強い意志で頑張ってしまう。主よあわれんでくださいの態度で主に
すがろう。そして主が何をしてくださったかを知っていこう。