2024年09月07日(土) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があり ます」Uコリント3:16
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があり ます」Uコリント3:16
律法主義は、心が無く、伴わず、形だけ、表面的に物事を行なっ て行く。するといつの間にか、心がまひしてしまい、外側の目に 見える形、つまり規則や習慣に安心感を得るようになる。外側の 形だけなら、人は幾らでも行なう事ができるのだ。信仰深い、霊 的な人を演じる事ができてしまう。演じながら、礼拝やデボーショ ンも、奉仕もできてしまう。 しかしそこに主への愛が無いなら、いっさいが無益であり、無価 値だと言われている。律法主義の中にいる時、自分の醜さや弱さ が決して見えない、気づけない。だから、人も裁いて行く。高慢に なっていて、全く気づかない。しかし、主に向く時、おおいが取り 除かれるので、自分のありのままの姿が見える。 ふたをしておきたい、決して見たくない自分の醜さ、汚れ、弱さ、 傷、それらがはっきりと見える。そこに御霊の光があり、神に触 れている証拠だ。律法主義は、暗闇の中だ。暗闇では、光が無 いので、自分の本当の姿が見えない。そのため自分は、常に正 しいと思っている。だから人をさばいて行く。 御霊の光の中で、ありのままの自分が見えて、それを認める時、 律法主義から自由にされる。解き放たれる。神と人に対して、自 由にされ解放されるので、ありのままの自分を素直に生きて行く 事ができ、信仰生活に自由な喜びが湧き上がる、主の愛の中で のびのびと、喜びを持って、生きて行ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 律法で歩むと、形は幾らでも整うが、心は不満でいっぱいだった り、荒んでいたりする。喜び無く、平安も無い。しかし立ち止まり、 主に向き、ありのままを祈る時、御霊に触れて、心が生き生きと 喜びが出て来る。真に御霊のあるところ、自由だ。