2006年11月05日(日) 「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)
主は子供のような信仰を持つようにと言 われた。しかし、子供のような素直な信 仰とは、子供っぽい信仰の事ではない。子 供っぽい信仰とは、自分が受ける事、も らう事しか考えない。神は良くして下さ らなければならない。困難が来るとすぐ 不平不満。思い通りにならないと、すね て、いじけて、自己憐憫に陥る。神を責 め、人を責め、環境のせいにする。友が、 忠告し間違いを正そうとすると、自分を 受け入れないと怒る。どこまでも「自分、 自分、自分」自己中心なのだ。あなたは どうか。大人の信仰か子供っぽい信仰か。 神は大人の信仰へと成長させたい。困 難が次から次へと来るのは愛のゆえだ。 ああしてくれない、こうしてくれない、 自分が中心に世界が回っているか。一生 それで終わるなら哀しい。あれが欲しい これが欲しいに終始するのでなく「あな たは私に何を望んでおられますか」に祈 りを変えよう。 ・・・・・・・・・ 焦点と関心が自分の事のみだろうか。 神は私に何を求め、何を望んでおられる のだろう。焦点を「自分」から「神」に 変えて、祈り、発想し、行動をしてみよう。 違う世界が見えて来る。