2007年03月06日(火)

「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」創世記3:7

   


 人は裸で生まれて来た。裸自
体は罪ではない。エデンの園で
はアダムもエバも裸であった。
しかし、罪が入って来た時、裸
が恥となった。汚れた思いなし
に見られなくなったからだ。
それで自分の恥を隠すために、
いちじくの葉をつづり合わせて
おおいを作った。私達の姿だ。
罪の恥を隠すために取り繕う。
とにかく隠しておきたい。人に
知られたくない。そのために嘘
をつき、相手のせい、状況のせ
いにする。体裁、体面を恐れて
隠すのだ。神が悔い改めの機会
を与えようと「あなたはどこに
いるのか」と問いかけられた。
「ごめんなさい」を引き出そう
として「あなたは・・食べたのか」
と問うて下さった。「ごめんな
さい。食べました」と罪を認め
れば良かったが、責任転嫁して
行った。アダムはエバに、更に
エバを置いた神が悪いと、神を
責めて行く。エバは蛇に責任転
嫁した。罪の姿だ。自分の罪で
あるのに、自分を被害者にし、
相手を責める。ましてや、その
状況を作った神が悪いとなる。
どこまでも罪深い。自分の内に
このようなパタンはないか。罪
の性質は、必ず罪を認めず人の
せいにする。罪を認める時、完
全な罪の赦しが臨む。真正面か
ら罪を認めよう。悔い改める事
が、その罪に責任を取る事だ。
その時、完全な赦しが臨む。
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自分の罪をするりとかわして被
害者になる。人を責めている方
が楽だろうか。私達はそうであ
ってはならない。見るべきもの
はいつも自分の内にある罪だ。
そこを認めなければいつまでも
成長もなく苦しい。