2008年11月07日(金)

「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」Tサムエル15:30



アマレクとの戦いで、サムエルはサウルに主の命令を告げた「行って、アマレクを打ち、
そのすべてのものを聖絶せよ」。

しかし、サウルは、命令に従わないで、最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのない
ものだけを聖絶した。サムエルは「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位
から退けた」と告げた。

するとサウルは「私は罪を犯しました。しかし、私の民と長老とイスラエルの前で私の面目
を立てて下さい」と言った。悔い改めは、面目を立てるための悔い改めであった。

神に対して罪を犯したから、悔い改めるのではなく、罪を犯すという事が、人前で面目を失う
という意識だった。

これは悔い改めではないので、神との関係の修復にはならなかった。
「主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた」。

私たちはどうだろう。真に御霊により罪を示された時、悔い改めが起こる。
その時、人など全く眼中に無い。自分と神との関係だけにいる。自分の面目など入る余地も無い。

人も面目も関係なく、ただ自分の罪だけが見える。
悔い改めにより主の十字架の血潮によって赦されきよめられる。真の悔い改めだ。

神との関係が修復され、平安と喜びが戻る。世の悲しみ=形だけの悔い改めは死をもたらし、
真の悔い改めは救いをもたらす。
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信仰生活は、神様と自分だけの関係だ。御心に従い神様に変えられたいと思わないならサウル
と同じだ。罪が示されているなら、真の悔い改めができるように祈ろう。