2009年10月07日(水)

「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7



誤った祈りがある。パリサイ人たちが会堂や通りの四つ角に立って祈ったように、自分がいかに敬虔であり、信仰深く、祈り深い者であるかを人に見せるための祈りだ。神を崇めるのではなく、自分を崇める。虚栄であり、自己顕示だ。

人に聞かせるために祈るのは、肉の性質であり、まさに偽善の祈りだ。自分を顕示したくて、祈りを人に聞かせる事とは逆に、人前で祈る事に尻込みする事がある。人を意識し、自分を意識するので、人前で祈る事は恥ずかしく、したくない。

実はこれも同じく肉の性質から出た自我による。又、異邦人のように同じ言葉を繰り返す事も誤っている。言葉数が多ければ良い、祈り勝ちとばかりに、何時間も同じ言葉を唱える。異教でよくある事だ。

これは根本的に違っていて、私たちと主とは、信頼関係で結ばれている間柄だ。主は祈る前に、私たちの状況をすでにご存じだ。しかし、だから、祈らなくてもよいのでなく、だからこそ祈れと言っておられる。主は求めに答えられるからだ。

すでに知っていて下さるからこそ、安心して求めることができる。「自分の部屋に入り、戸をしめて」人ではなく、自分でもなく、神を意識して、神に向き合う祈りだ。極みまで愛し慈しんで下さっている御父が、必ず答えて下さると信頼して御前に行こう。
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最善を与えようと聞いていてくださる方を、一心に見つめて祈ろう。人に聞かせるための祈りは人に求めている。祈りは神様と親しく交われる時。しっかりと依り頼み、ありのままの思いを告白しよう。