2009年11月06日(金)

「実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15:2



庭の木々の世話をする人は、剪定の大切さを知っている。時たま刈り込みをすると、豊かな実を結ぶし、綺麗な花が咲く。枝や葉っぱに余分な養分が流れるのをふせぐので、その分が実に行き届き、立派な実がなる。

同様に信仰生活においても、主は刈り込みをされる。出っぱっている所を刈り込まれる。それはプライドや虚栄心やわがままかも知れない。はさみで刈り込むので、必ず痛い。苦痛を伴う。高慢なプライドが出っ張っていれば、プライドが傷つく事態が臨む。

それはあなたを砕き、へりくだらせ、もっと柔和にするためだ。
主が刈り込んで下さっている。目の前にある痛い事は、もっと豊かな実を結ばせるための、主からの刈り込みだ。自らのどこに反応し、どの部分が痛いのか。

そこが刈り込みの必要な場所だ。もし刈り込みが無ければ、高慢で自己中心で、思い通りにならなければ周囲に当たり散らし、又、自己憐憫に陥り、落ち込むだけの同じ歩みを繰り返す。自分は何も変わらない。

又、進もうとしていた進路が閉ざされる事がある。自分はその道が最善と思い、そこに進みたいのに阻まれる。それも刈り込みだ。開かれた道から行けば良い。
そして、閉ざされた事が、後に、最善のご計画であった事がわかる。

その事で、必ず豊かな実を結ぶ事になる。刈り込みが感謝だったと必ず思える。
きよいからこそ、刈り込んで下さっている主の愛だ。
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刈り込まれ、出っ張りを砕かれ、聖い主に似た者へと変えられる。痛みがあるからこそ立ち止まれる。今、痛みが臨んでいるなら自分のどこが変わるのだろうと、主に問いながら今日も歩もう。