2009年12月07日(月)

「彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み・・私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです」詩篇109:3



ダビデは真実を向けた相手になじられ、愛するに関わらず憎しみで攻撃されるという辛い苦しい経験をした。サウル王やアブシャロムによる迫害ではないかと言われている。

非常なる苦悩であったろう。愛や誠意、真心は必ず通じると思いたいが、そうでない場合があるという事だ。その場合はどうすれば良いかを、ダビデを通して学ぶ事ができる。

誠意と愛をもって接して来た人々が、敵対し、攻撃して来る。
邪悪な口と、欺きの口と、偽りの舌をもって、憎しみの言葉で取り囲み、罵り、なじって来る。苦しい状況だ。まさに、人間の神に対する態度そのものだ。

しかし、神は、神を捨て、神に敵対する者を更に追いかけ、御子まで殺して下さった。その御子を私達はどう扱ったか。神の愛すら通じないのであれば、罪人である人間同士の愛が通じなくとも不思議はない。

主は十字架上で、人々の罵りに対してどうされたか。人々の赦しを御父に祈られた。ダビデも同じだ。「私は祈るばかりです」。相手に復讐するのでなく、神に心の内のすべてを打ち明け、神に叫び、神に知って頂くことができる。

神に心の内を叫び祈ったダビデは、この後、賛美と感謝へと変えられて行く。今、もしこのような苦しみの中にいるなら、答えは「私は祈るばかりです」。神に心の何もかもを打ち明け、聞いて頂こう。平安に変えられる。
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私達の毎日が親しい者の中で平和に暮らせるならラッキーだろか。けれど理不尽な環境の中でしか祈れない祈りがあり、明確な神からの慰めを見る。恐いのは人ではなく、試練の中で神に焦点を合わせられない事だ。