2001年10月06日(土)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル一二・一一)


私達の人生の中で、様々な試練に会
う。その時に、私達は必ずその理由
を捜し出そうとする。なぜ、この事
が起ったのか。なぜ、神はこの事を
許されたのか。「なぜ」が心を大き
く占める。人生の損失の理由を知ろ
うと、もがくのだ。あるクリスチャ
ン野球選手が癌で一命は取りとめた
ものの、野球生命は断たれてしまっ
た。彼の癌細胞は今後の癌研究に多
大に貢献するであろう事が明らかに
なった。しかし、これは別に神の目
的ではない。一つの良い結果である
かも知れないが、目的ではない。彼
は理由を捜して、もがく事でなく、
一つの明白な結果に目を留めている。
「私は以前は自分自身に拠り頼んで
いたが、今は神に拠り頼んでいる」
これが最高の益なのかも知れない。
「なぜ」と理由を捜すよりも、試練
を通して、何よりも神の偉大な愛を
学べるように祈る方が良い。