2010年09月06日(月)

「あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」詩編32:7


ダビデが姦淫と殺人の罪を犯したが、その後、自分は王でありトップだ、誰も何も言う者はいない。外側、罪を隠しおおして、口をぬぐっていた。しかし、ダビデの内側は惨憺たるものだった。一日中うめき、骨々疲れ果て、御手がのしかかり骨髄は夏のひでりでかわききった。平安の全く無い非常なる苦悶の中にいた。

神は預言者ナタンを遣わされ、その罪を指摘、ダビデは主の御前に罪を悔い改めた。この時、ダビデはバテシバのせいにせず、何の言い訳もせず、責任転嫁せず、自らの罪を認めた。これはダビデの素晴らしいところであった。罪は赦され、ダビデに全き平安が戻った。

「大水の濁流も、彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」との喜びが満ちた。罪の解決とは悔い改めしかない。幾ら自分で忘れよう、無かった事にしよう、気分転換すればと思っても、その苦しみ、うめきはどうにもならない。

「私のそむきの罪を主に告白しよう」その時、罪はおおわれ、完全に赦された。私たちもプライドがあり、自我があり、素直に罪を認められない。しかし、言い訳し、自己正当化している間は、神は働けない。「砕かれた、悔いた心」が神への一番の献げものだ。喜んで下さる。
-------------
御手がのしかかるのは、神の愛のゆえだ。愛されているから悔い改めへの示しを与えて下さっている。こんな罪など犯すはずがなかったのにと傲慢に思うだろうか。罪を犯すしかない者だと存知の神様に、何も隠さず、へりくだり悔い改めよう。