2010年10月06日(水)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20

「人々はやみを愛した」とあり、人の古い性質は、罪を憎むのではなく、罪を愛する。肉とは、したくないが、罪を犯すのではなく、そうしたくて罪を犯している。誘惑に乗ってしまうのは、誘惑を拒絶するのでなく、本当はその誘惑の中にいたい。誘惑は甘くて心地良い。苦いなら誘惑になどならない。そこから出たくない。やみを愛する罪の性質だ。

ぎまんに陥らないために、「できない」のでなく「したくない」自分であると認める事。光でなく、やみを愛する古い性質が、自分の内にある事を認識しておく事は大切だ。又、自分は見える、わかっていると言う事は、光を拒む事になる。見えない事を決して認めない。

しかし、光を拒むなら暗闇の中で見えるのは自分だけだ。自己中心の世界の中で、絶対に自分は正しく、相手が悪いとしか見えない。真理を行なうとは、自分の罪を認める事だ。自分を正当化し、人を裁き、責める者である事を認める。その時、その人は光に出るので、神が見える。

光があり、神が見えるので、更に自分の姿がはっきりと見えて、悔い改める事ができる。全き赦しを与えられ、新しくされる。今、自分が正しいとしか見えないなら闇の中だ。光は、正しいと思っているあなたの真の姿を照らし出してくれる。神の前でのみ、本当の自分が見える。光は恵みだ。
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主が十字架で罪を赦して下さっているのだから、主の前に正直に生きよう。自分の内にある古い肉をしっかり愛している事、主のみこころより自分の思う結果が欲しくて委ねられない事、欠けのあるままの自分を認め、いつも光の中にいよう。