2011年02月04日(金)

「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6


いけにえが形だけのものに、なってしまう事がある。牛をちゃんと献げたのだから良し、OK、すべき事はしたの態度だ。こちらサイドでは、すべき事をしたのだから、祈りが答えられてしかるべき、答えられないのは、神の方が間違っている、という事になってしまう。

今の私達も一つ間違うと、献げるべきものを献げ、するべき事をしたのだから、神は私の願いを聞くべき、願いが聞かれないのは納得が行かない、という態度になってしまう。神との関係が、対等の商売上の取引関係だ。しかし、決してそうではない。神とは取引でなく信頼関係だ。

神にすべてをお委ねして、神が良いお方であり、最善をして下さる事を、信じて行く関係だ。そこに信頼がある。そして、神が喜ばれるのは、開かれた耳、聞こうとする耳だ。御心を聞いて従おうとする心だ。

礼拝に出てはいるが、身体だけ、形だけ、御言葉を物理的に聞いているが、実は決して心の耳では聞いていない。自分の都合の良い言葉だけ聞いて、あとはシャットアウトだ。少しでも自我に触れて来ようものなら、即、心を閉じる。

もし、こういう状態であり、耳がふさがっているなら、神にありのまま、聞く耳がありませんと向かおう。神こそが、耳を開いて下さるお方だ。正直に自分の状態を認めて、神に向かう時、必ず答えて下さり、耳を開いて下さる。
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いくら御言葉を目で追っても心に入って来ない時がある。聞かない、聞けない心の態度が問題だ。何が耳をふさいでいるのだろうか、それも神様に問いながら型通りのささげ物ではなく神様と真の交わりに入ろう。