2011年04月06日(水)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17 



神は私たちを導かれる。でなければ、私たちはどう進めば良いかわからない。「導き」の主だ。その導きは、よくよく祈り、耳を澄ましていれば、御声が聞こえて来る。御言葉を読む時に、又、礼拝説教や学び会を通して、主に在る人々との交わりで、祈りの中で・・、どの方法かはわからないが、主は必ず導かれる。心しておく事は、その導きが自分の思い通りだとは限らない事だ。

ある時は、生まれつきの性質に反することを求められる。自分を非難し、自分に敵対する人のために、祈ったり、愛の行ないをして行く事かも知れない。又、自分には到底困難と思われる、新しい仕事や働きに就く事かも知れない。導きに従う事によって、重荷を負い、犠牲を払う必要が出て来るだろう。

しかし、その導きに従う時に、必ず大いなる祝福が臨む。だが、私たちはなかなか従わない。約束の地、カナンに斥候を出した時も、ヨシュアとカレブ以外は、恐しいとの理由で従わなかった。神は導き、民は逆らう。イスラエルの歴史だ。

神は私たちにも、繰り返し〃忍耐して導かれる。今、どうだろう。何かを始める事、人を赦す事、和解、何かを献げる事・・何らかの導きを受けているなら、従おう。豊かな祝福があり、主を新たに経験でき、必ず従って良かったと、大きな祝福と深い平安を経験する。
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なかなか従えず、神の導きと自分の思いの妥協点を見つけようとし不自由に手も足も出ない経験をする。導きを聞いたなら、従えば祝福が待っている。全てをお任せして、神の導きに委ねよう。