2011年05月06日(金)

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩編119:130


ある人が、苦しい、厳しい状況に遭遇した。苦しい日々に、聖書を開く事も、祈る事も出来なかった。神がいる事はわかるが、自分は祝福されていないと思っていた。他の人々が幸福そうに見えて仕方無かった。心が滅入り、落ち込んだ。しかし、そんな中で、信仰にある人々が、あちこちからメールや手紙や声かけで、御言葉で励ましてくれた。

後で思えば、辛く苦しい中も、周囲が与えてくれた御言葉で生かされていた。感謝でならなかった。あの人やこの人が、同一の御言葉を贈ってくれた事に、主の強い御心を感じ取れた。この非常な試みの時に、御言葉が命であり、力であり、御言葉いよって生かされる事を初めて経験した。

ある人も、心身消耗しきる、非常に厳しい試練の中で、もう心身弱り果て、考える事もできず、祈る事もできなかった。気力も失せ、何もどうにもならなかった。しかし、心は沈む一方で、聖書を読む事もできず、御言葉を見ていた。ただ、見ていたという状態だった。しかし、驚くべき事に、その見ていた御言葉が、光を放ち、心にピッタリとはまり、自分の心の何もかもをご存じのように、解き明かされて行った。

今の状況が、腑に落ちたのだった。御言葉に御霊の光が注ぐ時、御言葉の意味がわかり、御霊は、御言葉と状況を一つにして今、起きている事を解き明かして下さる。その時、状況は厳しいが、心には喜びと賛美が来る。
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霊的に光のないところを歩む事もあるが、主の私達に対するご愛には何の変わりもない。私達が交わりを求めていなくても、御ことばが臨むとき、心に喜びと力がよみがえる。主の御側が一番の平安だと悟れる。