2011年07月07日(木)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」士師17:6


エフライムにミカという人がいた。家は裕福であり、家に宮を持ち、後には祭司を雇うほどだった。ミカの母親が、銀千百枚が盗まれた時、盗んだ者を呪った。しかし、息子が盗んだ犯人と知るや一転、息子を祝福する。一貫性無く、自分の都合次第で、何でもありだ。ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して主に献げると言ったが、二百枚を献げただけで、何とその銀で彫像を作った。それがミカの母親だった。

ミカもミカで、自分の家に宮を作り、エポデを作り、自分の息子を祭司にしていた。そこに丁度レビ人が来たので、お金の力で、自分の家の祭司にした。レビ人も、お金に目がくらみ、ミカの要請を受け入れた。王が無い時、このように、偶像礼拝、秩序の乱れ、混乱、滅茶苦茶だ。「自分の目に正しいと見える」=「自分に都合の良い」だ。正義も、義も、御心も無く、ただ自分に都合の良いように、判断もその場〃で、コロコロ変えて行く。

そうなるのは、「王がない」ためだと。王が無い時に、自分中心、自分の都合、自分勝手に歩んで行く。主を自分の王座に、来ていただかないなら、自分自身も同じ状態だ。イスラエルのように、口では「神」、「主」と言いつつも、自分の都合のままにそれて行く。主を心の王座にお迎えし、主の御声に耳を澄ませ、主に従おう。
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自分の目や感情ほど不確かなものは無いと知っていても、やはり朝毎に、真摯に主を心に据え、御言葉によりしっかりと一歩を指し示してもらわなければ、すぐに都合の良い判断に流れてしまう。今一度覚えたい。