2012年08月04日(土) 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ ています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」Uコリント12 :10
「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ ています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」Uコリント12 :10
主は「求めよ。そうすれば、与えられる」と、だから祈れと言われる。祈りを喜 んで下さる。そして、どんな小さな祈りも聞いていて下さる。ただ、時に、私た ちの思いと、神のみ思いが大きく異なる。 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・わたしの思いは、あなたがたの 思いよりも高い」の通りに。主のみ思いは遙かに高く深い。私たちには、自分の 強い願いがあり、願いの通りに叶えて欲しい。 しかし、主のみ思いは異なる。例えば、もし病になれば、病がいやされる事が、 祈りの答えだと思ってしまう。しかし、もし、病がそのままであっても、喜びと 平安を与えられ、感謝に溢れた人生を、生き生きと送れるようにされる、それが 答えであるかも知れない。 祈りが聞かれるとは、自分の願い通りになる事とは限らない。ある人が、自分に は不都合な状態であり、厳しいマイナス状況だった。最初は状況が変えられるよ うにと熱心に祈り続けたが、全く変わらなかった。 もし、このままの方が主の栄光が現れるなら、このままで良いです、御心のまま にと祈りを変えた。その結果、状況は同じだが、御霊の平安と喜びに満たされた。 どうであれ、私たちの目標は、私たちの一生を通して、神の栄光が現れることだ。 パウロはトゲが取り去られるよう、真剣に、熱心に祈ったが、主は、それがある 方が、より栄光が現れると言われた。 ある人はトゲが取り去られ、ある人はそのまま残される。どちらも結局は、神の 栄光のためだ。主が与えて下さるものを、受け入れられるよう祈ろう。そこに、 この世の喜びではない、御霊の喜びを経験する。 ・・・・・・・・・・・・・ 信仰人生は、自分の思い通りではない事を、よく経験する。「〜こうなれば、万 事うまく行くのに」と思うが、主のみ思いはしばしば違う。遙かに高いご計画を 持っておられる。今、目の前の現状を受け入れられるように、祈ることが、御心 かも知れない。