2013年06月05日(水)

「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った」使徒14:9 



ルステラに、生まれながらの足なえの男性がいて、一度も歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度そこに座っていて、耳を傾けていた。彼は生まれつき歩く事ができず、自分の足に関して、何もどうする事もできなかった。どうやっても歩く事は不可能だ。完全無力の状態だった。自分で何もする事ができない。

だからこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがった。すがりつけた。彼にはこの言葉しかなかった。何もかもの、望みを託して信じて賭けた。この言葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そうできた。その信仰に、神の力が働き、奇跡が起きた。かつて一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり歩き出した。

私達も自らの徹底無力を知る時が、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神への信仰は無い。信仰半分、自分の力半分という事はあり得ない。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。そこに信仰の入る余地はない。

信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事だ。それゆえ、自らの無力を知る事が大きな祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事など無い。
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いつも先が見通せて安心していられることを望むが、神を信じるしか術がない状況を経験する度に、神様の真実な愛や恵みや導きを、しっかりと受けとる。今の平安は信仰半分、自分半分から来てはいないだろうか。