2014年12月06日(土) 「・・みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野 で激しい欲望にかられ・・そこで、主は彼らにその願うところを与え、 また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩編106:14
「・・みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野 で激しい欲望にかられ・・そこで、主は彼らにその願うところを与え、 また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩編106:14
イスラエルの民は、激しい自分中心の欲望にかられて、わがままに、 自分勝手に主に願い求めた。しかし、主は彼らに、彼らの願った通 りのものを与えられた。だが、彼らは、決して満たされることはな かった。願ったものは得たが、心はやせ衰えて行った。 主は、民がどうしても欲しい、何があっても欲しいというものを与 えられた。しかし、その結果は、欲しいものを得て、心は満足する はずなのに、そうではなく、平安無く、喜び無く、ますます虚しく なって行った。私たちも、これが絶対に欲しい、これを持つと絶対 に自分は幸せになる、満ち足りると思い、どうしても手に入れたい と願う。 しかし、自分が幸せになると信じている、そのものが、真に自分を 幸せにするのではない事に気づく。自分はこれが絶対だと思うもの が、自分にとって真に良いものだとは限らないからだ。私の最善は、 主がご存じだ。「彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち 望まなかった」。 さとしを待ち望まなかったと。自分が思うものは、真に自分のため になるとは限らないので、主のさとしを求めるのが一番良い。日々、 主のさとしを待ち望み、御霊が教えて下さることに、語られる御言 葉に耳を傾けて行く。そこに真の心の満足と平安がある。そして、 自分が一番願っていたものは、欲しかったものは、主との親しい交 わりであったと気づく。 ・・・・・・・・・・ 主の計らい、お心を無視して、自分の欲望をガンガン求めても、主 とひとつでないので、真の満足が無い。主の御心を求め、御心に従 う時に、主とひとつなので、平安が心のすみずみに広がる。主の計 らい、勧めを求め、待ち望むことが祝福だ。