2015年01月07日(水) 「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」ヨハネ13:4
「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」ヨハネ13:4
主が手ぬぐいを取って、腰にまとわれ、足を洗い、ふき始められ た。ペテロの番になると、「主が私の足を洗って下さるのですか」 「決して洗わないで下さい」と、恐れ多いと、ペテロはそれを拒ん だ。この時代はサンダルのようなはき物で、砂ぼこりで足が大変汚 れた。 彼はその自分の汚れた足を、師に洗ってもらうなどと、とんでもな いと思ったのだ。それは自分の汚い部分を、人に決して見せたくな いという事だ。醜い部分はおおい隠したい。誰にも知られたくない。 しかし、主はそこをあらわにし、洗わなければ、何の関係も無くな ると言われた。そこでこそ、主との関係が深められると。 私達は見栄えの良いところ、能力のあるところを見せたいものだ。 人に認められたいし、評価されたい。しかし、主と私達の間はそう ではない。弱い、醜い、汚い部分をすべて主に広げ、明らかにする 時に、赦され、新たにされ、造り変えられて行く。主は弱さを受け 入れ、罪は赦し、傷はいやして下さる。 主に心を開き、真実を打ち明けて行くことだ。その事により主との 関係がより親密にされて行く。弱さは悪で、強いことが善とのこの 世の価値観がある。しかし、正反対で、現された弱さにこそ、神の 力が臨み、神により強くされて行く。又、罪は赦される。弱さや罪 を隠す事こそ、主との関係を妨げてしまう。汚い足を洗って頂こう。 ----------- 醜い部分、弱い部分を主は知っておられる。なぜ隠して逃げている のだろう。自分自身が認めたくないからだ。主が見せようとし、ま た、洗ってくださる汚い足を差し出してみよう。