2015年12月07日(月)

「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。、あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」ヨハネ6:68





私たちは、どんな動機で主を信じ、又、どんな期待で従っているだ
ろう。主は、ご自身を求め、従って来る者を決して拒まれない。し
かし、助けて欲しい、祈りを聞いて欲しい、救われたいとの強い思
いがあったとしても、それがどんなに熱心であったとしても、自分
の欲求を満たすためならどうだろう。

遅かれ早かれ、思い通りにならない時に、失望落胆して主のもとを
離れ去る。実は従っているのではなく、自分の利得のために、主を
利用していただけだった。「弟子たちのうちの多くの者が離れ去っ
て行き、もはやイエスとともに歩かなかった」。利用価値が無いな
ら離れ去ってしまう。

しかし、真に従いたいと思う人は、そこで、離れるのではなく、自
らの欲求を満たしたいがために、従っていた事に気づかされた事に
感謝する。悔い改めて、信仰のあり方を軌道修正される大きな恵み
の機会だ。間違った方向に進む者を、御霊は示し、気づきを与え、
方向変換させて下さる。

彼らは、主の「肉を食べ、血を飲む・・」との言葉を、「ひどい言
葉」だと言った。絶対に受け入れられない拒否反応だ。不信となる。
自分が、主より上で、自分の知識を超えると、切り捨ててしまう。
理解できないのなら、へりくだって、主に教えてもらおうとは決し
てしない。そんな時、ペテロは従って行きますと信仰告白をした。
信じ、従って行く時に、「この教えが神から出たものか」わかる。
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自分主体なら主を知る事は一生ないだろう。自分が熱心に祈ったか
ら叶えられた、癒された・・という御利益信仰だ。主がもし見えな
いなら、私の思い通りを変えて御思いを教えてくださいと祈りたい。