2016年07月07日(木)

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった」使徒14:8



ルステラに、生まれながらの足なえの男性がいて、一度も歩いた事
がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度そこ
に座っていて、耳を傾けていた。彼は生まれつき歩く事ができず、
自分の足に関して、何もどうする事もできなかった。どうやっても
歩く事は不可能だ。完全無力の状態だった。自分で何もする事がで
きない。

だからこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの
言葉にすがった。すがる事ができた。彼にはこの言葉しかなかった。
何もかもの望みを託して信じて賭けた。この言葉がすべてだった。
自分が完全に無力だからこそ、そうできた。その信仰に、神の力が
働き、奇跡が起きた。かつて一度も歩いた事のない彼が、飛び上が
り歩き出した。

私達も自らの徹底無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策も無
く、何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて
信仰が働く。自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼してい
る限り、神への信仰は無い。信仰半分、自分の力半分というのはあ
り得ない。

幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。そこに
信仰の入る余地はない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任
せて行く事だ。ゆえに、自らの無力を知る事が大きな祝福であり、
幸いだ。無力に落ち込む事は無い。
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信仰半分、自力半分の時が一番苦しいのではないだろうか。徹底無
力の状況で、いよいよ主により頼むしかない時こそむしろ平安なす
がすがしい心もちになる。主の御力で立っておれる喜びを感じる。