2017年09月06日(水)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4


御言葉に、従おうとする時に、必ずあらがって来るものがある。
この世の価値観や、習慣、肉の思いだ。一見、非常に妥当に思え
る。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自分の力で
頑張るのが良い事、善、美徳だ。

今までも真面目に生きて来たが、救われてまことの神を知るや、
更に真面目に、更に忠実でなければと、信仰生活とは厳しい修業
のように思ってしまう。律法に従うのは、苦しいが、しかし苦し
みは美徳、当然、むしろ苦しいと安心感があったりする。修業し
ている気になれる。特に日本人の気質に合致する。

これらは世の価値観から来ている。しかし、真理と正反対の方向
に向かっている。それは神から出ていない。ここでは割礼の事で
問題となっている。ユダヤ人の慣習である割礼を受け入れて、問
題を起こさないようにと。何かをする事によって、神に、人に認
められよう、受け入れられようとする事は、恵みではない。

それはキリストから離れ、恵みから落ちてしまっていると。信仰
生活は、神に受け入れてもらうための苦しい修業でない。すでに
神に受け入れられ、完全な愛を受けているゆえに、喜んで、感謝
して自由に神に従って行くものだ。

「ねばならない」義務ではなく、「愛によって働く信仰」の愛が
動機であり、自発的な自由意志で主に応答し、従って行くものだ。
そこには苦しみでなく、喜びと平安がある。主を愛する愛がある。
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ねばならないと努力する事が救いの条件でなく、もう赦され救わ
れたのだから、努力も頑張りも主に褒めてもらうためにしたい。
失敗すれば主に悔い改め、いつも主に顔を向け歩んでいたい。