2019年01月07日(月)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」Uコリント5:7



モーセの死後、ヨシュアが民を率いて、ヨルダン川を渡る箇所があ
る。船も橋も無い。春先の雪解けで水かさが最も増える時期で、水
はとうとうと溢れ流れていた。主の指示通り、祭司たちは契約の箱
をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。自分の背丈よりも深い
川に入って行こうとした。目に見える何の保証もなく、ただ、ヨシ
ュアの言葉だけであった。

目の前は水かさ溢れる川だ。「足の裏が、水の中にとどまると、上
から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようにな
る」。先に、目の前で川の水が、そのようになってから、渡るなら
簡単だ。誰でも出来る。しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている
時に、足の水の中に入れる事は決して容易ではない。そのためには
信仰が必要だ。

見えない中で、示され、語られた御言葉に従うことが信仰であり、
そして信仰もって従う時、いつも神のみわざを見る。何も見えなく
とも、一歩従う時に、不思議が起きて確かに神が見えて来る。
私たちは、先が見えない状況は恐くて進めず、見えたなら従おうと
思う。しかし見えたなら信仰は必要無くなる。すでに見えているの
だから。

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、
せき止められた。この順番は重要だ。見えたなら従おうとするなら、
一生従えない。今、示しがあるなら、御言葉を頼りに、何も見えな
い中で踏み出そう。神の素晴らしいみわざを見ることになる。
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みわざを見せてください、それから従いますの態度ではないだろう
か。自分の想定を超えることは誰しも不安だ。不安の中で、全く神
に信頼する信仰を祈ろう。信じる者に働く神の力を見よう。