2021年09月06日(月) 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」Tヨハネ3:16
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」Tヨハネ3:16
兄弟のために命を捨てるとは、字のごとく死ぬ事ではなく、相手に とって何が最善であるのかを考え、そのために、自分にできる事で 犠牲を払う事だ。そして「神を愛するとは、神の命令を守ることで す。その命令は重荷とはなりません」とあり、神の命令を守る事は 、愛して行く事は、決して重荷とはならないと。 「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの 心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」 。自分には助ける力が与えられているのに、愛の行ないをしないな ら、そこに神の愛はとどまっていないと言っている。だが真実をも って愛の行ないをするなら、自らが主のもとにある事を知り、御前 に心を安らかにされる。 そして、心平安にされ、今度は自分が主に願うものをいただけると。 「求めるものは何でも神からいただくことができます」。なぜなら 主の命令を守り、主に喜ばれる事を行なっているからだと。力以上 の事をする必要はないし、できない。そこに無理がかかると、疲れ て重荷となってしまう。 別の個所で「この女は、自分にできることをしたのです」との言葉 があり、自分に出来る事で、犠牲を払えばよい。労力、富、時間、 与える事のできるものが、与えられている事が恵みだ。主が任せて 下さっているものの中から、愛の献げものを導かれているだろう か。 ----------- 相手にとって最善な事は何か、出来る事はないかと心を寄せる事か ら始めたい。悪気は全く無いが、関心も無いという日常ではないだ ろうか。心を向け祈っていこう。