2022年10月07日(金) 「「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白 くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」 イザヤ1:18
「「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白 くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」 イザヤ1:18
あなたも失敗した経験があるだろうか。ある人が大失敗をしてしま った。軽率な言動、行動に、後悔してもしきれなかった。自分とし た事が、よく考えもせず何と愚かな事をしてしまったのか。自分が したとは信じれられない。取り返しがつかない。しかし教えられ た。紛れもなく、それが自分なのだと。 本来の自分でないと思いたいし認めたくないが、自分はそのような 愚かな者なのだと。高慢を砕かれた。主に頼る事なく肉で歩むと、 欲望のままに歩んでしまう。自分がいかに罪深い者であるかを知ら され、主の十字架がまさに自分のためだと思い知らされた。 それまで罪人と言われてもよくわからなかった。法に触れてもいな いし、大罪を犯したわけではない。人に迷惑かけないよう真面目に 生きて来た。だが自分の本性は罪を好み、自然にしていれば罪を犯 し、又、罪を犯してもそれも認識できず、平然としている恐るべき 罪深さを知らされた。 辛い所を通ったが、初めて主の十字架が、誰のためでもなく、この 自分のためであり、十字架の意味がわかった。人前にも、隠しよう のない失態であった事も益とされた。人に知られた事によってプラ イドは砕かれ、へりくだらされた。もし人目に隠しおおせたなら、 懲りずにいたに違いない。 バレさえしなければ問題無いと、どんなに罪深い者であるかを御霊 は教えて下さる。主のご愛と真実だ。罪を認めて、悔い改めるなら 真っ白にされる。何という恵みだろう。主の恵みがどんなに大き く、主の愛がどんなに深いかを知らされて行く。 ----------- 罪を罪だと示されることはどれ程の祝福であるか。認めなければ赦 されることもない。御霊の促しに素直になり罪を認めていきたい。 十字架に感謝して賛美して歩みたい。