2025年05月07日(水)

「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15



信仰者である私たちは異邦人の中で生きている。主は、「異邦人の
中にあって、立派に振るまうように」と。ノンクリスチャンは、私
たちの生き方を見ていないようで、しっかり見て、観察している。
主は「立派に振る舞え」と言われる。信仰は、常識を超える事はあ
るが、決して主は非常識なお方ではない。愛は礼儀に反する事をし
ない。信仰者として法律を、社会のマナーを守って行く必要がある。

人々は聖書は読まないが、クリスチャンという人がどんな生き方を
するのか、その生き様を通して、聖書を知る。クリスチャンは「歩
く聖書」と言われる。「御霊の実は、愛、喜び、平安・・」、世の人
々が、渇望しているのが、「愛」「喜び」「平安」ではないだろう
か。人が求めるものは愛であり、誰しも愛し、愛されて生きたい。
それが得られないので、他のもので心を満たそうとする。

又、外側からの刺激による喜びしか、世にはない。何か嬉しい事、
楽しい事があるから喜べる。しかし、私たちの喜びは、外側に依存
していない。内側から湧き上がる御霊の喜びだ。又、恐れ、不安、
思い煩いの中にいる世の人々にとって、平安は何と魅力的だろう。
これこそが欲しいものだ。主を第一として、ゆだねて生きる時、こ
の平安が与えられる。

又、厳しい試練にあっても、世のものでない「主の平安」を経験す
る。それらは内側から湧く。御霊の愛、喜び、平安がある時、私た
ちに弱さや失敗はあっても、何かが違うと人々に思わしめる。振る
舞いを見て、神を誉め讃えるようになると。辛い事もあるが、従っ
て行こう。報いて下さる。
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すぐに外からの刺激に右往左往してしまうが、主を知り、主の光の
中に招き入れられている。混じりけのない御言葉を求め、従い、変
えられて行きたい。良き証しとされる。