2025年10月07日(火)

「パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。 主がモーセを通して言われたとおりである」出エジプト9:35


出エジプトの際に、パロとの戦いの中で、主はモーセを用いて、次
々と奇跡を起こされた。モーセは、奇跡の度に、民を行かせるよう
迫った。主の奇跡により、パロは苦痛が臨むと、「私は罪を犯した」
と言う。「私と私の民は悪者だ」「罪を赦してくれ」「私のために
祈ってくれ」と。一見悔い改めのように見えるが、悔い改めではな
い。その苦痛が収まり、ひと息つくや、強情な姿に戻る。

これは、それらしい言葉を口にはするが、心では悔い改めていない。
だから変わることがない。真の悔い改めなら、必ず実を結んで行く。
自分が変えられて行く。そして主が、しるしを行なわれるのは「わ
たしが主であることを、あなたがたが知るため」とある。だがパロ
にとっては、しるしが、主を知る事にはならず、脅しみたいなもの
だった。

その脅しが無くなれば、再び頑なで強情な本来の姿に戻る。私たち
はどうだろう。もし高慢なら、へりくだって、主に頼るようにと試
練を送られる。懲らしめは主の愛だ。放っておかれる方が悲惨だ。
だが主の愛によるその試練を、パロのように、単に脅しとするなら、
痛いので神妙になるが、その痛みが去ると、元に戻ってしまう。何
も変わらない。

問題が起きても、常に相手が悪いとしか思わない。それなら決して
成長が無い。自己中心なまなで変わらず、実を結ぶ事がない。だが、
御霊に導かれた悔い改めは、必ず実を結ぶ。砕かれた悔いた心を、
主は豊かに祝福し、実を結ばせて下さる。喜びが与えられ、主の栄
光が現わされて行く。
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何処に行っても嫌な人に出会ったり、不運ばかりが続くと思える時、
最初にすることは、ここから何を学ぶのかを主に聞くことかもしれ
ない。問題しか見られず、なかなか主の御心を学べない者だが、試
練の中で、変えられて行きたい。