2004年07月07日(水)

「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ・・豊かな養分をともに受けているのであれば」(ローマ11:17)

この世界では、人が悪いのは、親が悪い、生育歴の問題、環境の問題と言われる。人を愛するためには自分を愛さなくてはならない、それが出来ないのは親の育て方が悪かったから。しかし、聖書では問題は全く別のところにあると言う。エバが木の実を食べて罪を犯したのは、自分を愛さなかったからか。アダムも罪を犯したのは自分を受け入れなかったからか。そうではなく、私たちの根本的な問題は「罪」である。親の育て方でなく、自分の根本的な「罪」の問題だ。人は皆、自分が罪人である事を認めなければならない。他に責任転嫁してはならない。十字架上で罪は解決され、私達はキリストにつぎ木されたのだ。何と言う恵みであろう。キリストから養分が流れ来る。完全に新しい者とされたのだ。
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人のせい、環境のせいではない。神は、問題は「罪」だと言われる。人のせいにしているなら何の解決もない。人は尊厳ある存在であり、犯した罪に責任がある。自らの罪を認め、悔い改めるなら、赦され新たにされる。「良くなりたいか」と主は問うて下さり、癒して下さる。人のせいにしていないで、主に求めよう。