2007年09月06日(木)

「・・イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15



エマオ途上の弟子達は、不信仰と失
望に飲み込まれてしまい、かたわら
を歩き、話しかけて下さっているの
が主だと、わからなかった。神を信
じられない時、また、失望落胆にあ
る時、神が見えなくなる。すぐそば
に、かたわらにおられる、その神が
見えない。逆に言えば、私達がどん
なに神が見えない時も、わからない
時も、神はすぐそばにおられるとい
う事だ。仮に、自分が神を感じられ
なくても、見えなくても、共に歩ん
で下さっているという事実、これは
何という慰めだろう。感じられる時
には共におられ、感じられない時に
は、共におられないのではない。又、
不信仰は神を見えなくする。「愚か
な人たち・・信じない、心の鈍い人た
ち」「彼らの不信仰とかたくなな心
をお責めになった」主は不信仰は、
はっきりと責められる。それは間違
っていると。「信じない者にならな
いで、信じる者になりなさい」と。
あなたも今、失望しているか。不信
仰に陥っているか。自分の思い通り
にならないからか。しかし、一番の
問題は、信じようとしない、強情な、
頑なな、自分の心にあるのではない
か。問題は自らの不信仰と認めて、
悔い改めよう。その時、今の状況を
通して、必ず神の栄光が現れる。神
の素晴らしさを見る。
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神様を認めないなら、すべてが偶然
の連鎖だから、失望、落胆から逃れ
る事はできない。かたわらを共に歩
まれる主を認めて歩むから、虚しさ
から抜け出し喜びの中を歩める。