2009年09月05日(土)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27

ヨハネへの群衆の人気が、主イエスの登場により、どんどんそちらへと移って行
った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、自分の師を思う
がゆえに、はがゆさや、いらだち、妬み、寂しさを感じていた。

しかし、ヨハネは動じず、態度は立派だった。自分はキリストではないとはっき
りと言い、主が花婿で、自分は花婿の友人で、花婿の声を聞いて喜びに満たされ
ていると。

ヨハネは、人は関係なく、自分と主との間で、喜びをもって主に仕えていたのだ。
真に主に仕える者は、喜びに満たされる。

そして、ヨハネは謙遜だ。人を見て、人と比較する時、必ず妬みが生じる。優越
感や劣等感を行ったり来たりする。同期の同僚の昇進はどうだろう。学生間の成
績や人気、又、ライバルの成功など、心穏やかでいられない。プライドが傷つく
のだ。

人の成功を、自分の失敗のように感じ認められない。人が誉められると自分がけ
なされたように感じる。それらは心に巣くう高慢から来る。

ヨハネはへりくだった。人の誉れも成功も、天からのものであり、神の御手を認
めた。そして、神の与えて下さるものに感謝し満足した。そこに不平も不満もな
い。

すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、心に平安が臨む。へりくだった人
に与えられる恵みだ。水は低い方へしか流れない。恵みはへりくだった人に来る。

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一つ一つの事は、誰に向けて、何のためにしているのだろう。動機は何なのだろ
う。人にでなく、主に仕える時、主だけを見つめる時、心はすっきりし、納得し、
自分自身は喜びに満たされる。すべてに神を認め、神の主権を認める時、平安だ。