2010年08月05日(木)

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」ルカ7:9



百人隊長は、その立場上「権威」というものがわかっていた。自分の命令通りに部下は動く。自分の命令で人が動くのだ。それはバックのローマ帝国という偉大な権威のゆえであり、自らがその権威に従う時に、その権威を持つ事がわかっていた。それゆえ主の権威を理解し、お言葉さえ頂ければ十分だと言った。

自分の命令ですら、部下が動く。ましてや主が命令されたなら、病気は御言葉に従う、病気にすら権威を持っておられると信じた。私達は、なかなかこの御言葉の権威がわからない。主は、彼の御言葉への信仰に、見ないで信じる信仰に驚かれた。

又、ユダヤを支配するローマ帝国の隊長が、自分は異邦人であり、家に来て頂く資格は無い、伺う事さえ失礼と、そして自分の無力を認めて、主の御前にへりくだった。私達はどうだろう。主の主権と権威を、真剣に信じているだろうか。

都合良く、事が運んでいると、喜んで神を認めるが、思い通りでないと、何で?神様はひどいと、文句タラタラだ。手の平を返した態度になる。これは「神中心」でなく「自分中心」の信仰であるからだ。どこまでも自分が第一で、自分の思いに中心がある。

百人隊長のように、神の主権と権威を認め、神は必ず良くして下さると信じて行けたらどんなに良いだろう。その時、主は「このような立派な信仰は見たことがない」と言って下さる。信仰の中心が、軸が、「自分」にある事に気づく事が祝福の始まりだ。
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神様を信じているのに事が起こると軸がぶれ動揺するのは、権威に対する認識が頭だけのものだからかもしれない。全能の神様の「権威」を経験を通し知って、真にへりくだり、何が来ても自分に頼ることやめ、神様を信頼して歩みたい。