2010年10月05日(火)

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたい・・私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」マタイ20:2


主人は早朝6時から3時間おきに、労務者を雇った。夕5時に雇用の人々は1時間働いただけだった。しかし、主人は労働時間に関係無く、すべての人に同じ1デナリを支払った。早朝の人々は1デナリの賃金契約をし、それ以降は「相当のもの」と明確な契約は無かった。だから、主人は不当な事はいっさいしていない。

気前が良いなら、多く働いた自分達にはもっとくれてもよいとの不満だ。主人の心はあわれみだ。早朝の人は1日中希望と平安があった。1日働けば確実にそれ相当の賃金が入る。家に糧を持って帰れ、家族は喜ぶだろう。しかし、5時の人は、どんなに不安と思い煩い恐れの1日だったろう。家族にその日の糧が無い。
妻はどんなに落胆するだろう。どうすれば良いのだろう。不安は、いかばかりだったろう。主人は慈しみと憐れみで一杯だ。

主人のあわれみが現れた時、早朝の人々の妬みと怒りが露呈してしまった。肉は恵みに反発する。とんでも無い。パリサイ人は律法を忠実に行って来た。それが突然、行いは不要、信仰だけによる救いが来た時、反発し主を憎んだ。自分が否定されてしまうからだ。肉は行ないで認められたいし、評価されたい。自分の力
を捨てたくない。私達も恵みにより救われていながら、肉によって完成しようとしていないか。それなら十字架を否定してしまう事になる。
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私は何時から雇われた者だろう。ろくな働きも出来ないまま神のあわれみ恵みをただ受けている者ではないだろうか。もしそう思えないなら、その高慢な自分にも神のあわれみが注がれている事に感謝したい。