2010年12月06日(月) 「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである」ヨハネ3:21
「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである」ヨハネ3:21
信仰生活の中で、御霊により、私たちの心を照らし出され、自分の罪、弱さや醜さ、汚さを見せられる。自分の罪や弱さを見るのは痛い。見たくないし、決して認めたくない。そこに触れられるや、逃げてしまう。見たくないものは、心の引き出しにしまい込み、触れない。無い事にしてしまう。それで事足れりとし、放 っておいたりする。 しかし、主は、私たちを真実に愛して下さっているので、私たちを真に自由にし、解放するために、その一つ一つを御霊の光のもとに、引き出される。考えまいと押し込めていたもの、無意識下にあるものがあらわにされる。高慢やプライド、虚栄、貪欲、偽り、欺瞞、自己愛、内にあるドロドロの醜いものが出されると、 心は痛くて辛い。 自分はそんなにひどい人間ではない。良い人でいたい。その痛みから逃れたい。そのために言い訳、繕い、理由付けをする。自分を正当化する。そうすれば痛みから逃げられる。偽りの平安に逃げ込む。それが世が与える平安、肉の平安だ。 しかし、光からも逃げる事になり、暗闇だ。真の平安を得る道がある。照らし出される時に、いっさいの自己弁護も言い訳も止める事だ。それが私ですと、御霊の示しに同意する事だ。そして悔い改めるなら、十字架から平安が流れ出て来る。主の平安を経験する。 --------------- 言い訳、自己弁護をしようと思えば、なんでも正しくしてしまえる。正当化しながら自我を更に硬くして行く。何の問題もないふりで自分が欺かれてしまわないよう、失敗も、弱さも全部自分だと認め、主に委ね光の中に留まっていよう。