2011年03月06日(日)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3

私たちが一番試されるのは、他から批判されたり、間違いを指摘されたり、非を
攻撃されたりした時だろうか。感情的になってしまい、怒りをあらわにし、応戦
してしまうか。それとも、へりくだって、受け止める事ができるだろうか。

箴言には「叱責」が知恵につながり、大きな祝福となり、いのちの道へと導かれ
ると、様々な箇所がある。
「叱責を聞き入れる者は思慮を得る」「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざけ
る者は叱責を聞かない」「叱責を大事にする者はほめられる」「愚か者は自分の
父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる」「訓戒を大事にする者はい
のちへの道にあり、叱責を捨てる者は迷い出る」

その批判を自らの成長へと向けることができる。パリサイ人の際立った点は、自
らを正しいとした事だった。私たちも、古い性質は、肉は、常に「自分は正し
い」に立っている。喧嘩、争いの原因は、自分は正しいという事にある。

夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、対人関係での問題、争い、すべてここにある。肉は、必ず
正しいのは自分だと思っている。この落とし穴にはまらないためには、人を見る
のでなく、絶えず御言葉の鏡に向かい、御霊に自分を照らし出して頂くことだ。
御前にへりくだっているなら、示し出して下さる。そして、必ず成長へと導いて
下さる。

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へりくだる事ができない自分の姿を認めて、「へりくだれません」と祈ろう。へ
りくだれない者のために、神のあり方を捨て、ご自分を無にして、十字架の死に
まで従って下さった方がおられる。「へりくだれない者をあわれんで下さい」と
祈ろう。