2011年11月05日(土)

「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:2 


                   
安息日に弟子達が、麦畑を通りがけに穂を摘んだ。その事で、主がパリサイ人から非難を受けられた。その後、会堂に入られた、その時、そこに片手のなえた人がいた。パリサイ人の視線は、片手のなえた人にじっと注がれた。しかし、それは主を陥れようと、主を訴えるためであった。手のなえた人をも利用する、何と冷淡な心だろう。自分達を正当化するための手段であり、一片の憐れみも、同情もない。その手のなえた人が癒された、大いなるみわざを見ても、何の感動もなく、主を葬り去る相談を始めるのだ。

他人事ではない。形は違っても、「自分は正しい」に立つ時、自分もパリサイ人になっている。主は、そのような態度の原因を「その心の頑ななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。彼らの心は感覚が無くなっていた。愛や憐れみに無感覚だ。そうなれば主を殺す計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。心に生える苦い根を抜く事をせず、はびこらせるままにし、育て上げてしまった。

私たちの心にも苦い根が巣くっていないか。憎しみ、妬みの根はどんどん育ち、殺意にまで熟してしまう。実際、彼らは妬みのゆえに主を十字架につけ、殺害して行った。一方、主は、愛と憐れみの心で一杯であった。同じ「じっと見る」目が何と対極にある事だろう。苦い根を、即、抜き取るとは、悔い改める事だ。
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自分が間違っていないと思う時、憐れみのない上からの視線を相手に向けがちだ。苦い思いがざらつく時、謙遜になり主と同じまなざしを向けられるよう祈ろう。