2011年12月04日(日)

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押し つけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」ル カ6:38



ある宣教師が、母国からのサポートが、ある時、非常に少なかった。出来る限り
の節約をしたが、決まった支払いもあり、極めて生活が困難になった。必要が与
えられるよう祈り続けていたが、更に状況は厳しくなって来た。

すると、そんな中、ある予定がキャンセルになり、そのための費用が浮いた。
「主よ、感謝します。これが答えだったのですね」と非常に喜んだ。そんな時、
ちょっとした急な入り用で、その費用がきれいに消えてしまった。ひどく落胆し、
「喜んだのに、主のこれはどういうことですか」と御心を尋ねて祈った。

すると、何と献げるように言われたのだ。もう無いのに、しかし確かに主がそう
言われるので、思いきって信仰によって献げた。すると、そのすぐ後、宣教師へ
の指定献金が献げられ、生活のすべての必要額がピッタリ満たされた。主を崇め、
感謝と喜びで満たされた。

イサクは飢饉の時に種を蒔いた。すると百倍の収穫を得た。飢饉の時など、収穫
どころか蒔いた種すら、全部失うのではと不安に襲われるだろう。経済的不安の
ある時に、恐れで献げられない。しかし、信仰によって献げる時に、百倍の収穫
を得る。

恐れて蒔かなければ、収穫も、神を知る喜びも無い。人は蒔いたものを刈り取る。
これに例外は無い。何のために生きているのだろう。貯えるためか、それとも神
の御声に従い、愛であり、全能であり、真理である神を親しく知って行くためだ
ろうか。

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肉は、与えると減ると思う。受けると増える。肉は貰う方が嬉しい。肉は常に損
得勘定で動く。自分に損か得か。自分に利益が無ければ意味が無い。この価値観
こそが世の、肉の価値観だ。主の価値観は真逆だ。与える事が幸いで、与えるな
ら更に増える。自らの価値観はどうだろう。