2012年02月04日(土)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21



ヨブは、突然、子供たち全員を失い、家財や家畜、しもべたち、何もかもを失っ
た。そして、ヨブ自身にも、悪性の腫物でおおわれ、極度の苦痛が臨んだ。しか
し、「主は与え、主は取られる」と、ヨブはそれを神から来たものと受け止めた。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・」とあるように、神の思いは、
私たちの思いと大きく異なる。ある時は、私たちには理解できない。「どうして
このような事が?」「なぜ私に?」納得も行かない。しかし、神は、私たちがた
とえ理解できなくても、神を信頼して従って行く者と成長させるために、時に、
このような試練を送られる。

しばしば、クリスチャンもご利益宗教になってしまう。自分を軸に置くために、
自分中心に物事を見てしまう。自分が理解できる、納得できる範囲でしか、信じ
ようとしない。納得するなら、わかるなら信じるが、そうでないなら信じない。
拒否してしまう。

神を、私たちの理解できる次元の事に引き下げてしまう事になる。理解できない
状況の中で初めて、信仰が試され、練られ、しかし、「神は愛であり」「最善を
され」「ご計画があり」「益とされる」と、信じる者と変えられて行く。主がそ
のように成長させて下さる。理解はできないが、しかし、主を信頼する者とされ
て行くなら何と幸いだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
苦しい最中に、私たちが納得行くようにと、理由をことごとく説明されても、そ
れで試練を乗り越えられるのだろうか。厳しい試練の最中で、忍耐できるのは、
今、主が共におられるという信仰、主への信頼だ。試練の度にその信頼が強めら
れて行く。