2012年03月06日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2


私たちの日常は、洪水のように言葉が氾濫し、溢れている。テレビやラジオ、新聞、雑誌、ネットから、ありとあらゆる言葉が流れ出て来る。溢れる言葉に囲まれ、さらされて生活している。では、言葉の洪水の中から、私たちはどの言葉を聞いているのだろう?自分はクリスチャンなのだから、地の言葉ではなく、神の言葉を聞いていると思っているだろうか。

しかし、ここで問題は、聞き方だ。どんな態度で聞いているだろう。聖書の中から、自分の好きな言葉、都合の良い言葉だけを選び取り、痛い言葉、罪を指摘される言葉、都合の悪い言葉は流してしまう。それなら、主が主なのではなく、自分が人生の主人であり、自分の都合で、御言葉を取ったり捨てたりする事になる。

自分が、御言葉の下にへりくだるのではなく、御言葉の上に立って、選り好みしていると、いつしか、御言葉を御言葉として聞けなくなってしまう。主の御声がわからなくなる。そして、ことばを聞くことの飢饉となってしまう。御言葉が無くなるのではなく、御言葉は常にあるのだが、自分の側で受け取れなくなってし
まう。

「主のことばを聞くことの飢饉」となり、「主のことばを探し求める。しかし、これを見いだせない」御言葉を見いだせなくなってしまう。愛して下さっている主からのことばを、へりくだって受け取ろう。痛い言葉こそが、自分に語られている必要な言葉、聞いて従おう。「わたしが目を留める者は」のごとく、そこに主の慈しみ目が留められている。
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御言葉の下に、従う心で身を置こう。内から外からの声に惑わされず、へりくだり自分だけに語られる主の声を、ひとつひとつ受けていかなければ、見い出せない鈍き者になってしまう。