2012年06月05日(火)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:3



謙遜とは、本当は自分には力があるが、それを人に見せびらかさない事ではない。
「いえいえ私などは」と腰を低くする事ではない。本音で自分は無力だと認めて
いる事だ。取税人は真に自分の罪深さがわかっていた。

それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばない。人の事など
目にも入らない。ただただ、自分と神との関係だけがすべてであり、自分の罪だ
けが見えた。神に自らの赦しを求め、そして彼は完全に赦された。

モーセは40才の時に、自分の力で、同胞を救うために立ち上がった。しかし、失
敗し、荒野に逃れ、羊飼いとして40年の歳月を過ごした後、召し出された。40年
前と違い、老人になり、かつての栄光も力も富も人脈も何も無く、真に自らの無
力を思い知ったモーセは「私はいったい何者なのでしょう」と尻込みした。神に
説得され押し出された。

主の一番弟子であったペテロは、いつでも前面に出て、出しゃばってしまう、自
信家であった。しかし、目の前で大漁の奇跡を見た時に、「わたしから離れて下
さい。わたしは罪深い者」とへりくだった。そして、主を三度否んだ後、大泣き
して悔い改め、自らの徹底無力を思い知った。

心の貧しい者は幸い、自分の心底無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな
者だ。自分を誇らず、誇れず、自分に頼らず、頼れず、主に拠りすがって行くか
らだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそ、実は最大の祝福だ。

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神のようになりたいと、アダムは罪を選んだ。自分の内にある肉の性質は、自分
で生きて行こうとする。自分の知恵と力で突き進む。主はそれを砕いて下さる。
無力を教えられる。認めさせられる。しかし、初めて天の満ち満ちた恵みを経験
する。