2012年10月06日(土)

「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをす る偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」 マタイ6:2

               

主は「人に見せるために人前で善行をするな」と言われた。右手の
している事を左手に知られるな、施しが隠れているように。自分の
善行を人に知らせてはならないと。

しかし同時に「あなたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたの良
い行ないを見て、天におられる父を崇めるようにせよ」とも言われ
た。「あなたがたは世界の光であり、山の上にある町は隠れる事が
できない」と。良い行ないを見せるようにと。

これはどう違うのか。この問題は、動機がどうかだ。自分が賞賛を
受け、自分を喜ばせるために、自己満足のためにしているのか、そ
れとも、神のために、神を喜ばせようとしているのかだ。自分の賞
賛のためにする善は偽善であり、パリサイ人の善行がそうだった。

人の前で自分を正しいとし、人の間で崇められる者は、神の前で憎
まれ、嫌われると主が言われた。人前でなく、神の御前で生きる事、
人の目でなく、神の目を意識して生きる事が言われている。

誰しも、人に良く思われたい。人に好かれたい。嫌われたくない。
人前で体裁を繕い、人目を気にして生きている。目に見えない神よ
りも、目に見える人に、良く思われたい。罪の性質だ。

つまりは、この世のほうが重要であり、主をないがしろにする事に
なる。サタンの誘惑だ。主の御前で生きることは、信仰によるので
あり、御霊による。
まず、自分の本当の姿はどうだろう。人にほめられ、崇められたい
のだろうか。実際の姿を認める時、いつも血潮の赦しがある。御霊
は助けて、心を正しく導いて下さる。主の評価だけを求めて行く時、
真の平安と自由を経験する。

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人は目に見えるので、目に見える人の評価や賞賛を求め、目に見え
るものによって生きてしまう。目に見えるものがすべてであり、大
切だと、サタンにだまされてしまう。その時、目に見えない主や、
永遠が飛んでしまう。いつも御言葉が立ち返らせてくれる。