2013年03月06日(水)

「人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』」創世記3:12


エデンの園で、サタンの誘惑により、最初の人アダムとエバは、神の命令に逆らって、罪を犯した。「神のようになり、善悪を知るようになる」と言われ、そうなりたいと、善悪の知識の木からとって食べた。その時、神から離れた。その結果、神の御顔を避けて身を隠した。

そんな彼らに、神は「あなたは、どこにいるのか」と問うて下さった。主の問いかけにより、初めて罪を認識できる。悔い改めの機会を、主のほうから与えて下さった。ところが、罪を認めず、自分は悪くない、この女が悪い。この女がくれたので、私は食べた。更には、この女を私のそばに置かれたのは、あなたであり、あなたが悪いと。

エバはエバで、私は悪くない、蛇が惑わしたのだから、惑わした蛇が悪いとした。責任転嫁、自己正当化、正しいのは常に自分だ。この罪の性質が、自分自身にもあり、日常生活、至る所に顔を出す。相手の言葉に自分が腹を立てると、自分を怒らせるような事を言う、相手が悪い。怒らせるような事を言わなければ、自分は怒らないのにと。しかし、怒っている自分の罪には気づかない。

ある人は、自分は被害者であり、相手が悪いとしか思えなかった。相手のせいで辛く苦しいと。しかし、御霊に示された。その相手を憎んでいる罪ゆえに、平安が無くて苦しいだと。その罪を悔い改めた時に、心に平安が戻った。主と自分の間の隔てが無くなったからだ。自分の問題である事に気づく時、解決が来る。
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全く自分が悪いと罪は認めやすいが、憎んで当然、惑わされても当然の状況であれば弱い。責任転嫁の準備がすぐに整う。主の前に自分の問題としての罪に気づけ、そして悔い改めていきたい。